情報・意見発信

 みんなと歩んだ「日本語教師人生」~文化庁長官表彰を受賞して思うこと~

12月14日、令和4年度の文化庁長官表彰を受賞いたしました。これもひとえに、日本語教育に関わる方々をはじめ、さまざまな方との協働があってこそ、自分がめざす方向に進んでいくことができたのだと、感謝しています。

授賞理由に、「日本語教育の専門家・実践家として」という文言がありますが、現場を大切にし、常に実践家でありたいと思ってきたことを理解していただき、嬉しく思います。ここで、これまで歩んできた日本語教師としての道、その時々に思ったことを改めて記しておきたいと思います。まずは授賞理由を記し、そこから話を広げていくこととします。

              <授賞理由>

永年にわたり、日本語教育の専門家・実践家として日本語教育機関の教育の質の向上及び主任教員などの研修の充実に努めるとともに、日本語教育機関・教員のネットワークや研修・情報発信が進むよう研究所を設立し、留学・就労・生活分野の横断的な情報共有を行うなど業界全体の発展に貢献している。

 ※令和4年度文化庁長官表彰被表彰者https://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/pdf/93799101_02.pdf

■日本語学校から始まった「日本語教師人生」~いくつかの日本語学校で勤務し、教務主任に~

私が日本語教師の第一歩を踏み出したのは、1980年代半ば、まだ日本語教育能力検定試験が出来る前のことでした。その後、1987年度(実施は、1988年1月31日)に検定試験がスタートし、運よく第1回に合格したことから、留学生対象のA日本語学校での非常勤としての仕事が始まりました(それまでは、ビジネスマン対象のプライベート、グループレッスンを行うB日本語学校に勤務していました)。

1991年1月のことでした。当時、B校、C校、D校と、3つの日本語学校で非常勤講師として働いていたのですが、不思議なことに、B校とC校からほぼ同時に、教務主任としてのお話を頂いたのです。私は、しばらく考えた末、「必死の思いで日本留学に夢を託し、日本にやってきた留学生達と一緒に歩み続けたい」と考え、最終的に留学生対象のC校を選びました。C校とは、それから22年間勤め続けることになったイーストウエスト日本語学校です。今では、「教務主任は、専任経験3年以上」という条件がありますが、就任に当たってそのことは一切言われることもなく、日本語教育能力検定試験合格証と教員免許状の提出が求められるだけでした。

こうして私の日本語教師人生は、日本語学校とともにスタートし、それからずっと関わり続けることになりました。まだ揺籃期にあった日本語学校は、さまざまな点で大変なことがありましたが、一方で極めて創造的なお仕事であり、自分達で主体的に、クリエイティブに仕事が進められたのは、大きな魅力であったと言えます。

■日本語教育振興協会の活動に参加して~主任教員の研修に力を注ぎ……~

1989年に任意団体としてスタートした日本語教育振興協会(日振協)は、翌1990年には財団法人となり、日本語教育機関の質の向上に力を注いできました。その中で、私は、教師研修などにさまざまな形で関わってきました。

私塾のような日本語学校も多々見られる中、日本語教師の質の向上が求められていた時代です。「何とか質の向上を図りたい」と、日振協が軸となり、同じ思いを持つ先生方の集まりが少しずつ広がっていきました。特に、1997年はキーとなる1年となり、以下に記す二つのことが新たに始まりました。

★日本語教育セミナー(通称「箱根会議」)

=各日本語学校の教育責任者が一堂に会して教育について話し合いをする会で、第1回は箱根で開かれたことから、通称「箱根会議」と呼ばれています。後に場所が京都に移ったことから「京都会議」となりました。

    

★日本語教員研究協議会

=日本語学校の先生方にとって、気楽に実践研究を発表する場が必要であるという考えからスタートしました。2006年に「日本語学校教育研究大会」として再出発し、今も充実した内容で行われています。

このあたりのことは、以下の記事に詳しく記しています。

     西尾珪子先生を偲ぶ~ロールモデルとして先生を追い続け……

          http://www.acras.jp/?p=11850

また、2000年代に入ると、「主任教員研修」の検討が始まりました。最初は、「初任主任研修」と「現職主任研修」と、2つの柱を立て、別々に実施していましたが、やがて一本化され、現在に至っています。こうして「日本語学校の教育の質の向上」に向けて、みんなで力を合わせて走り出したのです。

■「日本語学校を理解してほしい!」という強い願い~良いことをしていても、発信しなければ分かってもらえない!~

21世紀に入っても、日本語学校の存在は社会に広く知られることはなく、日本語学校関係者の間では、

   ・世の中は、日本語学校のことを理解してくれないから、困ったものだ。

   ・メディアでは、負のイメージばかり強調されるし……。

   ・こんなに素晴らしい教育をやっているのに、分かってもらえないのは悔しい。

といったことがよく言われていました。私は、その声を聞くたびに、こんなことを考えていました。

   その通り!もっともっと理解してほしいと私も思う。でも、どんなに良いことを

   やっていても、どんなに頑張っていても、発信していかなければ、分かってもら

   えない。それをみんなでやらなくては!

2006年のことでした。JANJANというインターネット新聞のスタッフが、イーストウエストにいらして「日本語学校を紹介する記事を書いてほしい」と切り出されたのです。こうしてコラム「ワイワイガヤガヤ日本語学校」がスタートしました。しかし……。そのJANJANが2010年3月に「休眠宣言」を出し、半年後には記事が消えてしまうという状況となってしまいました。

そこで私は、やったことのないホームページに挑戦。サイト「日本語教育<みんなの広場>」を作ることにし、2010年9月よりスタートしました。

                      http://www.nihongohiroba.com/

それは、「日本語学校のこと、日本語教育のことを発信し続けなければいけない。継続してこそ意味がある」という強い思いからでした。

■2012年3月「アクラス日本語教育研究所」立ち上げ~フリーな立場で「人つなぎ」をしたい!~

2012年3月、突然イーストウエスト日本語学校を辞めることにしましたが、それにはさまざまな理由があります。しかし、とにかく前を向いて、新たな形で日本語教育の世界で活動を続けようと決意しました。その思いに関しては、以下の記事に記しました。

      「イーストウエスト日本語学校を去るということ」

             http://www.nihongohiroba.com/?p=2398

こうして、アクラス日本語教育研究所を立ち上げ、「さまざまな人々の出逢いと対話の場」を創ることに力を注ぎ、より広く、より深いネットワークの構築を目指したいと考えました。点ではなく線、面になっていくことで、小さな力が大きな力となり、ムーブメントを起こすことができます。フリーな立場で、どんどん進めていきたいと考えたのです。私の趣味は「人つなぎ」、まさに趣味と仕事とが合流した活動となりました。

もう一つ大切にしたのが、情報の収集と発信です。サイトでの発信、フェイスブックなどを使っての発信、さまざまな工夫を凝らしました。「学び合い研修」も実施してきましたが、参加した人だけが学べるのではなく、終わってからの「実施レポート」を出したり、オンラインになってからは「参加者の感想や資料の提供」などによって、参加できなかった大勢の方々にとっても大きな学びとなるスタイルの研修としました。

■留学・就労・生活分野の横断的な情報共有をめざす~「虫の目、鳥の目、魚の目」の大切さ!~

日本語学校の教育の責任者を務めている時から大切にしていたことの一つとして、「さまざまな分野と関り、広い視野で日本語学校づくりをすること」でした。1991年に教務主任となった私がめざしたことの一つとして「地域社会とともに歩む日本語学校」が挙げられます。今でこそ「社会とつながる力」がさまざまな面で強調されていますが、30年前には、ほとんどの日本語学校は、外にあまり目が向いていない状況でした。

また、地域日本語教育との関わりも大切にし、個人的には、「生活者としての外国人の日本語教育」にも関わり始めました(学校全体の動きにまで持っていけなかったのが、心残りではありますが……)。さらに、2008年にEPA介護福祉士候補者の受け入れが始まると、介護の日本語にも関心を持ち、イーストウエストを退職した翌月からは、ホームヘルパー2級の勉強に通い始めました。

子どもの日本語、難民・・・と関心は広がっていきましたが、私自身がやれることとして、「自分自身が関わらなくても、とにかく広範囲の情報発信を心掛けよう」と決め、情報収集に力を注ぎ、発信し続けました。次第に、「こんなニュースを載せてもらえませんか」といった依頼も舞い込んでくるようになり、ますます情報発信は楽になっていったのです。

    *いつも貴重な情報、タイムリーな情報をありがとうございます!

    *アクラスでは、いろんな情報をいただくことができ、とてもありがたいです。

    *外国にいると、なかなか情報が入ってきません。とても助かります。

こんなお声に支えられ、楽しみながら発信し続けている私です。

「虫の目、鳥の目、魚の目」という言葉があります。現場をしっかり見る目、全体を俯瞰的に捉える目、そして、時代の流れ、物事の動きを見る目が求められていると言えます。そのためには、しっかりとした情報を得て、その情報を編集する力、それをもとに対話し、次の行動へとつなげていくことが大切です。そうした中で、小さな力ではあるものの、少しでもお役に立てたら…という思いで、これからも活動していきたいと思っています。

今後ともどうぞよろしくお願いいたします!

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