2024年4月16日、1年ぶりに「のしろ日本語学習会」を訪れました。しかし、そこには、いつもニコニコと迎えてくださる北川智彦さん(コーディネーターの北川裕子さんのご主人)のお姿を見ることはできませんでした。実は、この教室を長年支え続けた智彦さんは、昨年7月23日にこの世を去られたのです。
■智彦さん亡き後、北川裕子さんから頂いたメール
亡くなった直後に裕子さんから頂いたメールを、許可をいただき、ここに一部引用させていただきます。なおメールにある「北さん」は、北川智彦さんのことです。
北さんの葬式は、30年継続してきた日本語教室の集大成だと思いました。彼が冗談のように、自分が死んだら日本の葬式を見せてやればいい。それで、「ゆりかごから墓場まで」指導する日本語教室になるな」と言っていました。
受講生達にとって彼の死は父親の死と同じでした。葬儀場には子ども達の泣き声と嗚咽が・・・火葬場に来てお骨を拾った受講生もいました。30年以上前の受講生は60歳になっていました。彼らは言いました。
「能代教室の生徒だったことは自分の誇りでした。先生や教室のことが新聞に取り上げられるたびに、私はこの教室の生徒だったんだよって、周りの人に自慢してきたんです。智彦先生がいなくなっても教室は継続して下さいね」
今の能代教室は、能代市と近隣町村の日本語教室指導だけでなく、学校加配の日本語指導、生活支援・・・有償で企業労働者(ベトナム・ネパール)に対する日本語指導・・・請求書提出など多種多様な形で日本語指導に関わっています。裏方を北さんに任せていたことに改めて気づきました。そんな私に渇を入れてくれたのは、ボランティアと受講生達でした。
「先生、大丈夫ですか?・手伝うことないですか? 先生のお弁当早く食べたいな(ボラの人たちがお握りを届けてくれていました)。クリスマス会やらないの?」
「そうだった。日本語教室を必要とする人たちが待っている。協力してくれるボランティアだってたくさんいる。日本語教育の適正かつ確実な実施を図る・・・そのモデルとなるのは「のしろ日本語学習会」の活動だったはず」、そう思ったら、落ち込んではいられないと思いました。クリスマス会は、皆の協力で無事実施。子ども達の笑顔を見ているうちに勇気がわいてきました。「智彦先生がいなくても私たちが代わりに頑張ります。能代教室はどこに出しても恥ずかしくない教室です」というボランティアの皆さんの言葉が、心にしみました。
■智彦さんが伝えてくださったメッセージ
北川智彦さんは、高校の数学の教師として活躍なさっていましたが、「のしろ日本語学習会」が誕生してからは、次第に子どもさん達の教科を見ることに力を注ぐようになっていきました。そして、定年退職後は、日本語教室の裏方として、ホームページ管理から、広報、火曜日の夜のお弁当運び等々、あらゆることに関わってこられました。もちろん教科でつまずいている子どもがいれば、熱心にサポート、そのおかげで、多くの中学生が高校に合格できました。
私は、2020年12月に『外国にルーツを持つ女性たち 彼女たちの「こころの声」を聴こう!』という本を出しましたが、その1年前、本に登場する一人ひとりに「実名を出していいか」をしっかりと確認するために、能代に出かけていきました。そんなある夜のこと、きりたんぽ鍋を前に美味しい日本酒を飲みながら、北川夫妻といろいろな事を話していました。その時、智彦さんがおっしゃった言葉が忘れられません。
学校の先生の意識が変わることが大切なんだけど、これがなかなか難しい。だから、ここでやっていること、子どもたちの姿、お母さんたちのこと、そう、能代の活動を伝えてほしい。みんな、知ることで変わることができるんだから。
先生、能代の人達のこと、絶対本にして出す必要がある。まずはみんなが知ることが大切。だから本にして出さなきゃなんない。それが先生の使命、役割だと思うよ。
ぽーンと背中を強く押された気持ちがした私でした。いつも寡黙で、にこにこしながら裕子さんの話を聞いている智彦さんでしたが、この日の夜は、実に饒舌にさまざまな想いを語ってくださったのでした。そして、これが智彦さんとおしゃべりをした最後の日となりました。
闘病生活を送っている時にも、「なんとしてもこの子を高校に入れねばなんないから」と、病を押して数学の指導を続けた智彦さん。その子ども達は、今、元気に高校生活を送っています。「高校を出なければ、将来の道が拓けない」と言い続けて指導を続けてきたお陰で、どれだけ多くの子ども達が救われたことでしょう。
火曜日の夜の教室に行くときには、裕子さんがいくつものお弁当を作り、それを智彦さんが両手にいっぱい持って会場まで運んでいらっしゃいました。そして、ニコニコしながら、子どもたちにキーマカレーをお皿に入れたり、お弁当を配ったり……まさに裕子さんと二人三脚のボランティア活動でした。本当に、随所で智彦さんに支えられて進んでいた「のしろ日本語学習会」でした。
■ボランティアさんが語る智彦さんの姿
木曜日の「のしろ日本語学習会」のあと、ボランティアさん達とランチをご一緒しながら、思い出話を伺いました。
*最初、智彦先生のこと、公民館の職員さんかと思ってしまったんですよ。それぐらいみんなの中に溶け込んで、自然な形で、活動していたんですね。なんていうか、「縁の下の力」って、いう存在でした。
*私、火曜日も木曜日も活動してるんですけど、いつも、じっと、静かに話を聞いていて、私達が困った、どうしようということになると、「こうすればいいんじゃないかな」と言ってくださってたんですよ。「ああ、見守ってもらっているな」って、いつも感じていました。
*亡くなる少し前、ラインが来たんです。病気のことが書いてあって、「今後ともご協力ください。よろしくお願いします」と。これが智彦先生からの最後の言葉でした。でも、あとは、私達が力を合わせて頑張って、これまでと同じようにやっていこうと、みんなで話し合いました。そうそう今度の日曜日(4月21日)は、お花見会です。
*智彦先生は、ラインでのお知らせとかも、いつも、「〇〇さんの作ったおにぎりおいしかった」とか、「みなさんも楽しんでください」とか、ただのお知らせだけじゃなくって、なんか温かい言葉が入ってるんですよね。それが嬉しくて……。
*裕子先生が思うように、やりたいようにできるように、事務方の仕事をやっていたのが智彦先生。そうそう、3年前トシ君が秋田のスピーチコンテストに出たんですよね。それが、終わってすぐに、もうYouTubeがラインで送られてきて、みんなでトシ君のスピーチを見ることができました。「早くみんなにも見せたい」って思いが伝わってきました。
■ボラさんが活動に参加するようになったきっかけを聞いて……
今回、智彦さんのことを伺いたいと、教室が終わったあと、ボランティアさん達と一緒にランチを楽しみました。そこで、上述したようなことを伺ったのですが、もう1つぜひお伝えしたいこととして、「のしろ教室」にボランティアとして関わるようになったエピソードがあります。
Aさん
娘が、高校3年生のとき、「能代で何かボランティアをしたい」と探していたんです。そうしたら、「のしろ日本語学習会」の盆踊り大会でボランティアを募集していることを知って、出かけていきました。そこで、公民館で子どもに勉強を教えていることも分かって、何回か参加しました。
娘は、その後、県外の大学に行っていろいろボランティア活動にも参加したけれど、この能代の教室みたいなところはなかった。何回かしか参加しなかったけれど、すごい教室だ!と、いつも言っていたんですよ。みんなで子ども達のことを考えて、サポートしているのがすごい。その娘の言葉がずっと頭に残っていて、9年前に思い切ってこの教室を訪ねてみたのが、はじまりです。
Bさん
私は、スーパーで仕事をしていた時、ネパールの女性Cさんと友達になってよく話していました。2018年でしたね、その人が「今度、スピーチコンテストに出るんだ」って言うんで、「何話すの?」って聞きました。実は、Cさんはいつも楽しそうに、「北川先生が、こんなことを言ってくれた」「教室でこんなことがあって……」と、自分が勉強している日本語教室のことを話していたんです。ニコニコしながら、本当に楽しそうに話すんですよ。
ある日、いろいろ質問する私に、「とにかく教室に来てください。来たらわかります」と言われて、教室を訪ねました。それ以来、途中都合で休んだりしていましたが、今は、とても楽しくボランティアとして活動しています。北川先生に出会えて、幸せです。
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2007年から毎年能代にでかけている私ですが、今回初めて「桜が満開の能代」を訪れました。智彦さんが子ども達と一緒にお花見会をやっていた「能代公園の桜」、みごとな「能代市役所の桜」、そして、「大潟村の桜(と菜の花)」も堪能させていただきました。
智彦さん、長い間、お世話になりました! ご一緒に愉しんだ日本酒の味、忘れられません。どうぞこれからも天国から「のしろ日本語学習会」を見守っていてくださいね。
今年の「のしろ日本語学習会」のお花見会(2024.4.21)
北川さんから送っていただいたので、ご紹介したいと思います。(4月24日)