現場から

日本初の「町立日本語学校」としてスタートした東川日本語学校~「町づくり」とともに歩んだ学校づくり~

9月16日、北海道上川郡にある「日本初の公立東川日本語学校」を、教師研修のためにお訪ねしました。10年前に、新聞記事で東川日本語学校誕生の記事を読んでいた私は、東川という町、東川日本語学校という「日本初の公立日本語学校」に、大きな関心を寄せていました。今回現地でさまざまな方にお会いして、誕生までのプロセス、町づくりへの思い等を伺うことができ、実に実り多い「東川行き」となりました。

(1)大切なのは、「はじめに日本語学校設立ありき」ではないということ

~「町づくり」の中で生まれた「日本語学校づくり」

設立から10年経った東川日本語学校の現状を見て、「なぜうまくいった(いっている)のだろう」「うまく進めていく秘訣はなんだろう」という声を、アチコチで聞いていました。今回、学校のコアメンバーの方々からお話を伺い、最終日には、菊地町長にもお目にかかって思いを伺うことができ、その理由がよく分かりました。

最も大切なこととして、まず「日本語学校を作る」ことを考えて動いたのではなく、東川の町づくりをみんなで考え、何年もかけて活動を続けていく中で、「町立の日本語学校をつくってはどうだろうか。町の人々の理解も得られ、環境も整った。施設も用意できるし、あとはアイディアを出し合って……」ということで、長年の町づくりの<ある一部分>として、町立日本語学校設立が決まっていきました。

最近、市町村からの視察が大幅に増え、いろいろな相談もあるそうです。そこで、小山校長は次のように語ってくださいました。

うちは特定技能が大勢いるからとか、地元の人材確保のために外国人の受入が大切なので、地元に公立日本語学校を作ることが良いと思っているといった声をよく聞きます。でも、うちはそういう考えはありません。「卒業生を地元で雇用したい」ではなく、うちでしっかり学んでもらって、「送り出す」という感覚でやってきました。国に帰ってもいい、他の町で働いてもいい。自分の夢を叶えてほしいと思っています。

では、どんな町づくりのプロセスがあったのでしょうか。少し時代を遡ってみていきたいと思います。

(2)人口減を前に「写真の町:東川町」誕生!

      ~写真を通して、町の国際化が進む~

「せんとぴゅあⅠ」の廊下には、ずらりとカメラが並んでいました。

東川町は、1950年をピークに人口減少が続いていましたが、何とか増加に持っていきたいと、努力を始めました。そこで考えたのが、「写真」をキーワードにした町づくりです。大雪山をバックにした美しい自然の中にある東川町は<写真を撮る>には最高の町といえます(2,291mある旭岳は、北海道最高峰)。1985年に「写真の町宣言」が行われ、<自然&人&文化>をめざし、写真文化と国際交流を通じて、世界に向けて発信を始めたのです。

「東川町国際写真フェスティバル」が開催され、写真を通じた世界各国との交流が始まりました。続いて、高校生を対象とした「写真甲子園(全国高校写真選手権大会)」「高校生国際写真フェスティバル」がスタートし、さらには、姉妹都市連携や文化交流連携を結び、高校生の相互派遣や文化・スポーツ交流が盛んになっていきました。こうした時の流れの中で、住民の方々も、外国の方々との触れ合いを楽しみ、自然な形で受け入れる姿勢が育っていきました。

今年40年を迎えた「東川町国際写真フェスティバル」のサイトから、少し引用したいと思います。

                          (https://photo-town.jp/about

1984年、東川町に開墾の鍬がおろされてから満90年のとき。10年後に迎える100年に向け、後世に引き継いでいく町の未来をどのように思い描くかを考えました。

東川は大雪山国立公園の大自然に恵まれた町であり、多くの写真の被写体となってきました。この美しい環境を後世のために守り育てながら、人々がいきいきと暮らす町であり、住民でありたい。  ・・・中略…

1985年6月1日、東川町は豊かな文化田園都市づくりをめざして、とてもユニークな「写真の町宣言」を行いました。写真文化によって町づくりや生活づくり、そして人づくりをしようという、世界でも類例のない試みです。出会いを永遠に記録する写真による、町の美を永遠にとどめるための活動は、今もさらに展開し続けています。

(3)市町村合併の話に、行政も住民も「町づくり」に乗り出す

     ~一人の卒業生のリクエストで生まれた「東川町短期研修事業」~

前松岡町長は、2003年に市町村合併に反対し、「東川町を残そう!」と訴えて、当選しました。それから5期20年、町長として町づくりに尽力され、2023年に任期満了を迎え、退任なさいました。皆さまの話を伺うと、町長は、次のスローガンのもと、町づくりを進めていかれたのです。

 <前例がない。予算がない。他の町ではやっていない。こういうことは言うのは止めよう

 新しいアイディアは、どんどん取り入れ、やれることはやっていこう!

就任4年目の2007年、地元にある専門学校北工学園(旭川福祉専門学校)の韓国の卒業生が「国には日本留学したい人が大勢いる。ぜひ日本語学習の機会を作ってほしい」と東川町を訪れました。それを聞いた東川町では、早速次の年、この卒業生が住む韓国・水原市に調査に出かけました。とにかく新しいアイディアには、まず向き合ってみるという姿勢です。

     9月18日の「日本語短期研修開講式」

こうして一粒のタネから、2009年「東川町短期日本語・日本文化研修事業」が生まれ、旭川福祉専門学校の空き教室や寮を使って短期研修が開始されました。この年は、韓国からの留学生40人が、1か月間学ぶプログラムでした。2010年には台湾、2011年には中国からの留学生を受け入れるという形で成長を続け、研修期間も受講者の出身国・地域もどんどん広がっていきました。午前中は、日本語学習、午後は、地域住民が講師となってさまざまな伝統文化体験や、木工クラフト、さらには旭岳散策やスキーなど、実に多様な体験・交流プログラムが用意されています。

なんとこれまでに4千人を超える人々が、このプログラムに参加しているといいます。ちょうど私が東川町に滞在していた9月18日は、「日本語研修開講式」の日でした。今回は、52名の方が2週間のコースを受けるとのこと、このプログラム参加が2回目という人も複数いました。それだけ東川町の短期日本語研修が楽しく、魅力的なものだということを表しています。

(4)東川日本語学校は、なぜ生まれたのか

      ~時の流れの中で、町づくりの一部としてスタート~

町立東川日本語学校の誕生は2015年ですが、それは、「写真の町宣言」から始まった写真を軸とした国際交流、卒業生の要請で始まった「東川町短期日本語研修事業」があったからこそ、可能になったといえます。ちょっと短期研修のデータを見てみましょう。2009年=72名、2010年=104名、2011年=98人、2012年=183人と参加者が増え続けています。そこで、2014年には北工学園に日本語学科が設置され、日本語教師養成も始まりました。それは、日本語学校を設立するにあたっての人材確保も視野に入れてのことでした。「東川町に住む人は、受講料は3万円でよい」という条件のもと、教師養成にも力を注いだのです。

もちろん学校がスタートしてから、小さなフリクションはありましたが、何十年もかけて育んできた「外国の方との触れ合いを大切にする」という町民の姿勢は、留学生にとってとても住みやすいものとなりました。学校も、「生きた日本語」を学ぶことを大切にし、町民との出会い、会話が楽しめる環境づくりに力を入れてきました。さらに、先生方は口をそろえて、次のように語ってくださいました。

町の人たちは、いろいろな国際交流イベントや、ホームステイ受け入れ、また、いろいろな姉妹都市に出かけたりと、さまざまな体験を通して、留学生を受け入れる姿勢が出来ていました。留学生をとても大切にしてくれます。そして、留学生たちには、「とにかく挨拶が出来る人になりなさい」と言い続けています。

先月には、「インタビュー発表会」がありました。これは、各クラスでチームを作り、町の方々にインタビューをしに出掛けます。それをまとめて発表するというイベントです。もちろん町の方々にも聞きに来てくださり、そこでも交流を深めることができるというイベントです。これは是非他の日本語学校でも見習いたい実践です。

(5)校舎は、元小学校の校舎を活用

     ~町民との触れ合いを大切にしたデザインに感動!~

東川日本語学校の設立時に話を戻しましょう。校舎は、東川小学校が近くに移転したので、それを使用することになりました。もちろん耐震構造にかえ、日本語学校使用にするため、大変な労力と費用がかかりましたが、みごとな校舎が出来上がりました。元小学校は、「せんとぴゅあⅠ」として生まれ変わり、そこには日本語学校だけでなく、ギャラリー、コミュニティカフェ「ワッカ」なども設置されています。こんな素晴らしい環境で学び、暮らし続けることができる留学生は、本当に幸せですね。

「せんとぴゅあⅠ」にある多文化交流室

隣にある建物「せんとぴゅあⅡ」は、さまざまな機能を備えた図書館です。自由に動き回れるスペースのある図書館で、町民が自由に本を選んで読んでいます。その他、周りには明るい部屋がいろいろ用意されています。「こどもコーナー」「学習室」「多目的室」「体験室」等々、それぞれの部屋で、町民がゆったりと自分のしたいことに向かって時を過ごしているのが印象的でした。

「せんとぴゅあⅡ」図書館にある「君の椅子」の展示コーナー

図書館の片隅にあった「君の椅子」は、私の目を釘付けにしました。「君の椅子」は、2006年にスタートし、今も続いている東川町の温かい取り組みです。生まれてくる子どもたちに、一つひとつデザインが違う手作りの椅子を町がプレゼントしているのです。また、中学校卒業時に、3年間使い込んだ椅子が「学びの椅子」として贈られるという仕組みもあります。こうしたところにも、「一人ひとりを大切にした町づくり」をしている東川町の「温かい思い/個を大切にする姿勢」がよく表れています。

ここで、「君の椅子通信Vol.15 2024」から、磯田氏(「君の椅子」プロジェクト代表)の言葉を引用したいと思います。

私たちプロジェクトが大切にしてきたのは、「新しい生命」を身近にした家族が、その想いを託するに足る椅子であり続けること、そして何よりも「新しい生命」の生涯に寄り添うことになる椅子として、どのような仕組みであるべきか、を考えることでした。振り返って見ると、結果として「君の椅子」プロジェクトの仕組みは、経済合理性や効率性といった、これまで日本の発展を支えてきた成長軸とは対極にある‟ものの考え方”“物差し”で積み上げられてきたと言えます。

   

最後に、東川小学校の新校舎についてお話ししたいと思います。校舎の前に立って驚いたのは、<270メートルという横に伸びた平屋の校舎>であることでした。子どもたちが自由に動けるようにとデザインされたのだそうです。中に入ると、教室を分ける壁はなく、すべてオープンスペース。その開放的な様子に感動。木工の町東川だけあって、ふんだんに木を使い、採光にも配慮された明るい校舎になっています。

東川小学校の校舎と「ゆめりん」

学童がいっぱいになったので、今では、町のアチコチにある施設で<見守り隊>が活動してくれています。町も町民も、みんなで子育て支援をしていくことが大切ですね。

(6)町に育まれ、町を育む東川日本語学校

       ~笑顔溢れる町づくりの中で~

校舎に入ろうとして、菜園があることに気がつきました。「ABC組 東川日本語学校 農業倶楽部」というプレートがあり、トマト、ピーマンなどいろいろな野菜が実っています。これは、留学生達が、先生と一緒になって育てている菜園です。今年もたくさん実ったのですが、留学生が喜んで取っていったので、もうほとんど残っていませんでした。

これは、「みんな母国では、都会育ちで野菜を育てたことなどないんですよ。だから、東川日本語学校に居る間に、植物を育てる楽しさを知ってほしいと思いました」と語る小山校長は、もともと技術科の教員であり、野菜づくりの専門家。こうして専門性をもった校長と一緒に菜園づくりに取り組める留学生って、なんと幸せなんでしょう! また一つ「東川日本語学校の魅力」を感じた一コマでした。

留学生は、午前中4時間授業が終わると、町民との交流などを楽しみます。教室、図書館、そして寮もすべて徒歩か自転車で移動することができる所にあります。思い思いに会話を楽しんでいます。ここで、小山校長の記事「留学生とともに歩む町づくり」(『地域づくり2024.9』)

から少し引用したいと思います。https://www.jcrd.jp/publications/chiikizukuri/2024/sep/

町内行事も留学生の参加が当たり前になっている。自治会行事である盆踊大会には浴衣で参加し、町民体育大会ではスポーツと懇親会で盛り上がり、神社祭では法被姿で神輿をかつぎ、大雪山旭岳の山開きでは松明をかかげ、東川氷まつりでは雪だるまを作り、通年では社会福祉協議会で、「会話教室」を行うなど交流を深めている。

「卒業後東川町で働いてくれる人材を育てるために日本語学校をやっているのではない」という言葉を記しましたが、留学生がいることで、町のコンビニやお店などは大いに助かっています。小山校長は、同じ記事の中で、「学生は会話力向上のためにアルバイトをする。コンビニやスーパーのレジ打ちに留学生が立つ。レジ打ちもお客さんも留学生ばかりになるときもある」と語っています。こうした「留学生と対話し、留学生とともにつくる町づくり」って、いいですね!

(7)東川町は、住みたい町1位!

    ~「適疎の町」として、豊かな暮らしを!~

8月に、大東建託による、「いい部屋ネット「街の住みここち&住みたい街ランキング2024<全国版>」が発表になりました。それによると、順位は、以下のようになっています。

    第1位  上川郡東川町

    第2位  東京都中央区

   温浴型複合リゾート キトウシの森「きとろん」

    第3位  兵庫県芦屋市

    第4位  東京都文京区

    第5位  愛知県長久手市

       https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000001183.000035668.html

私なりに考えた「東川町の住みやすさの理由」として、次の8点を挙げたいと思います。

1)上水道がなく、全戸が地下水で生活できる。

2)大雪山連峰をバックに、豊かな自然に恵まれている。

3)景観条例を制定し、美しい町づくりをめざしている。

4)子育て支援・起業家支援などが充実している。

5)「写真の町」として国際交流なども盛んである。

6)「ひがしかわ株主制度」を利用して、移住者が多い。

7)「君の椅子」制度など、一人ひとりを大切にしている。

8)旭川空港から10分と、交通の便が良い。

過疎が進む市町村が多い中で、東川町の人口は増えています。それは、行政も「住みやすい町づくり」に力を入れ、移住者が増えていることを見てもわかります。

              ◆       ◆      ◆

9月18日には、町役場を訪ね、菊地町長にお会いし、お話を伺うことができました。町長は、日本語学校の設立、存在意義について熱く語ってくださり、「日本語学校は、町づくりの一部であること」「適疎で豊かな暮らし」が東川町にはあることを伝えてくださいました。町立日本語学校がなぜ誕生し、これほどうまく動いているのかを知りたくて、いろいろな方にインタビューして回った2日間でしたが、根底に<誰にとっても住みやすい町づくり>があり、その中で豊かな「人との関係づくり」があってこそなのだと、改めて痛感した東川出張でした。

菊地町長からは、東川の産物をお土産にいただき、いろいろな資料もいただきました。これからも、東川日本語学校の留学生達は、適疎の町で、住民の方々と楽しく語らいながら、自分の夢に向かって進んでいくことでしょう。

※適疎について、東川町役場のサイトには、次のように記されています。

                                           

             https://higashikawa-town.jp/portal/top/panel/108

   適疎(てきそ)――普段あまり聞き慣れない言葉だと思います。この言葉自体は、1969年の『過疎社会』(米山俊直、日本放送出版協会)の中に見られるように、日本で過疎や過密が論じられ始めた頃から存在していました。
その「適疎」という言葉を、過密でもなく過疎でもない、「適当に『疎』(ゆとり)がある」ことと解釈し、町では2007年頃から、まちづくりの理想像を示す言葉として使ってきました。私たちにとって「適疎」とは、仲間と時間と空間の3つの「間」があり、人々の暮らしに「ほど良いゆとり」がある暮らすことなのです。

           

東川ともお別れです。
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